2018年8月27日月曜日

伝説の目撃者は?──海神

2018.8.11【千葉県】──伝説の地を歩く

 西船橋と船橋の間に「海神:かいじん」という地名があります。ずっと気になっていたので、その周辺を歩きました。




 「海神」から想起するのは、ギリシャ神話のポセイドン(海と地震の神)ですが、日本ではワタツミ(神話の海の神)龍(水の神)になるのか。
 地名由来の伝説について船橋市ホームページには「日本武尊(やまとたけるのみこと)が、当地へ賊徒平定にやって来たとき、海上に光り輝く船があった。近づいてみると、柱に神鏡がかかっており、それを浜に持ち帰り、祀った場所が海神である。」とあります。
 以前、付近の海に面した地に西海神村と海神村があり、双方とも伝説の地として譲らなかったのか、西海神村では当神社が伝説を祭る社とされます。
 境内には現在も湧水による池があり上の龍が鎮座します。



 一方の海神村では、右の入日神社を伝説を祭る社とします。どちらの社にも海に向かう参道があったそうですが、JR総武線が通され双方とも面影はありません。
 意富比神社(おおひじんじゃ 通称:船橋大神宮)が現在地に移設後、跡地に当社が祭られたと伝わります。
 ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、熊襲(くまそ:九州南部のヤマト王権抵抗勢力)征討、東国(関東、東海、甲信地方)征討を行ったとされる伝説的英雄。
 奈良を都とした大和政権が、日本平定(東北以北は含まず)を啓蒙するために設定したヒーロー像とすると、分かりやすいかと(神々を平定したとの記述らしい)。
 日本書紀に始まる系統立てられたストーリーが求心力となり、国をまとめたとすれば見事な戦略と言えそうです。

 丘陵地の海神山周辺は見晴らしのいい高台で(以前は東京湾や富士山が見えた)、京成線 海神駅開業(1919年)から別荘地化が進みます(付近に宝塚遺跡がある)。
 ところが、周辺に陸軍施設が作られ将校等が多く居住したため、朝の迎えの軍靴(ぐんか)の音、馬の蹄の音、サーベルの音等が響いた様から、将軍山と呼ばれたそう。
 当時民間地の軍用地への転換は命令ですから、周辺の開発も一方的に進められたのではないかと(京成電鉄もかなりプッシュしたように)。
 現在は船橋に近い閑静な住宅街として、暮らしやすそうな環境に見えます。右も入日神社。

 右は、西葛西埋め立て前の海を通された架空送電線 江東線の延長上にある鉄塔で、埋立地沿いに火力発電所や工業地帯を結ぶのではなく、新京葉変電所(江東変電所へ向かう鉄塔 江東線、新豊洲変電所までを地中線で結ぶ新豊洲線の起点)に向かい、都心環状ルートに接続します。
 新京葉変電所の先が、福島や新潟(柏崎)原発からの電力供給幹線ルートになりますが、原発停止中の現在は、水力・火力発電所からの電力を、需給バランスを取りながらルートの切り替えをしているらしい。
 それでやりくりできるのであれば、再生可能エネルギーの実用化まではそのまま継続して欲しい! と思うのは、わたしだけではないはずと。




 縄文時代早期(約7000年前:縄文時代で一番暖かい時代)の遺跡を整備した公園にある博物館。
 南向き傾斜地のヒルトップに位置し、日当たり・見晴らし抜群で植生も豊かだったと思われ、人が集まり集落が形成されたことも、自然の摂理と言えそう。
 暖かい時代(極地の氷河が溶け海水面が高かった)は海神山との間が海の入江だったとすれば、快適なヒルズライフだったように。

 そんな時代から人が棲む土地ですから、本当にヤマトタケルがこの地を訪れたとしたら、きっと目撃者がいたと考えたくなります。ですが彼は、東国征討にやってきたわけですから、地元民は討ち果たされてしまったのか?

 一枚上は、博物館で開催中の縄文アートの展示物で、芝の刈り方も作品の一部らしい(伸びかけで分かりずらいか)。
 右は住居跡に貝塚を再現したもの。

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