2018年4月16日月曜日

江戸期の風情を伝える──行徳

2018.3.17【千葉県】──地下鉄 東西線を歩く_6

 周辺には古い時代より、江戸川(旧 太日川:ふといがわ)からの土砂が堆積し平坦な湿地や遠浅の海が広がるため、その地を利用しようとする人々が営みを始めました。



 行徳とは、戦国時代に江戸川区篠崎付近に神社を建てた山伏の別称で、周辺に神社へ納める塩を作る塩田があったことに由来します(現在も本塩の町名が残る)。
 江戸時代の行徳塩田は幕府の支配下に置かれ、水路整備により水・陸街道の接点となったことから(成田方面への街道)、人々が集まり文化が根付くことに。

 右は、南行徳公園の危険そうに見える滑り台ですが、子どもたちには人気があります。ガキの時代に、足を踏み外しそうな階段として改良された記憶があり、大丈夫かと心配になります。

 右写真奥は、対岸の江戸川清掃工場
 妙見島の産業廃棄物処理工場でも感じた、都境にこの手の処理施設を作ろうとする内政重視の姿勢は、隣県には迷惑きわまりないが、自区内処理の原則に従う江戸川区にしても立地場所が限られるのも確か。
 隣接自治体との事前協議はあったとしても、作られてしまえばおしまいという気もします。

 以前付近の川岸にあった船の係留施設は、どこも閉鎖され、下ののように放置されます。費用がかかるから何もしないでは、環境悪化を助長するようにも。


 現在の地勢からは、旧塩田は京葉線付近にあったように思えるが、旧江戸川沿いに広がったようです。
 家康の街道整備事業により行徳街道が通され(参勤交代に利用された)、後に江戸へ塩を運ぶ塩の道水路が整備され、当時盛んだった成田詣での参拝客の往来が増え、栄えるように。
 当初、旧江戸川を渡る今井の渡しは大名専用で、庶民は市川関所を通されました。東京の西側で育った者には関所=箱根で、東側にもあるのは当然ながら、市川(江戸川岸)にあったとは想像もできませんでした(失礼)。
 右は香取(かんどり)神社(奥はイチョウの木)。


 江戸からの水路は、江戸期に開削された小名木川新川を経由し旧江戸川に通じます。
 江戸側には現在の小網町付近に行徳河岸があり(行徳の焼塩などの荷揚げ場)、行徳側には旧江戸川岸に行徳新河岸があり、成田参詣、鹿島神宮や銚子方面への旅人がここから陸路をたどりました。
 船着き場付近には、陸路で来ても寄らない人はいなかったと言われる、行徳名物笹屋うどんの建物が残されています。また、街道沿いに健在の味噌店や船具店(現在は船外機を扱う)などを見かけると、往時のにぎわう様子が目に浮かんできます。

 右の常夜灯は、江戸時代に成田詣での江戸日本橋西河岸・蔵屋敷の講中が、航路安全を祈願して成田山に奉納したもので、江戸航路を結んだ船は行徳船(ぎょうとくぶね)と呼ばれ、本行徳村が運行しました。
 それぞれの役割があるので悪口のつもりはないが、農産物を江戸へ運び、江戸の糞尿を運んで帰る船の葛西舟(かさいぶね)とでは、地名のイメージが違いすぎると。

 左下側は対岸にある王子マテリアの煙突で、下流域(葛西沖、浦安沖など)に被害をもたらした黒い排水の元凶(当時は本州製紙)。工場の排水口付近で採集した排水にフナを入れた途端に、全部死んだ実験結果もあるそう。
 高度成長期には、人間も含めて実証実験の対象とされるような事例が、身近に数多くあったように……

 江戸城防衛のため橋が少なかった江戸川ですが、現在3箇所に橋を新設する構想があるらしい。その経緯は、江戸時代当初は隅田川に千住大橋以外の架橋を禁じたため、大火の際に対岸へ逃げられず多くの犠牲者を出したことから、大橋(両国橋)を建設した状況と似ているようにも。
 その発端は東日本大震災の夜、都内から千葉県側へ向かう帰宅者が市川橋などに殺到し、橋を渡るのを諦め東京側の避難施設で一夜を明かした帰宅困難者対策のようです(約8キロも橋がない区間がある)。
 ですが受け止め方によれば、東京都の防衛策(隣県人までは面倒見られない)と読み取ることも可能と思うが、それは失礼に過ぎるだろうか……

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