2018年6月25日月曜日

ここもふるさとの海──津田沼

2018.6.3【千葉県】──JR総武線を歩く_6

 津田沼にはガキ時分の「なだらかな坂道の記憶」があるも、総武線は平坦地を通るイメージがあるため自信を持てなかったが、津田沼駅が丘陵地にある様子を確認し、長年のモヤモヤがスッキリしました。




 池がある神社と知り、ここが「津田沼」の由来かと足を運んだが、かすりもしませんでした。
 1889年(明治22年)村制施行時に、周辺集落から谷津の「津」、久々田の「田」、鷺沼の「沼」の三字をとって村名とし、後の津田沼町が千葉市の一部を編入して習志野市となります(1954年)。
 習志野の名称は、陸軍演習場を観閲した明治天皇が「習志野ノ原」と命名しますが船橋市に属すため、現習志野市には直接的な義務はありません。
 そこは新京成線が旧日本陸軍鉄道連隊から払い下げらるなど恩恵を受けた地域で、お上を立てるため隣接地ながら名を残し、習志野ナンバーが与えられたようにも。
 そんな経緯のため、市内に習志野駅はありません(新京成線 習志野駅は船橋市)。





 旧谷津遊園に日本初の360度回転するコークスクリューコースターが登場した当時(リンク先のYouTubeは、1977年当時の雰囲気がチクチクして恥ずかしくなる…)は、とても刺激的だった記憶があります(未経験)。
 京成電鉄が運営する遊園地は黒字ながらも、東京ディズニーランドへの経営参画のため1982年に閉園します。
 周辺の塩田を埋め立て京成遊園地が開園した当初(1925年:大正14年)は、土地を持て余していたようで、阪東妻三郎の阪東関東撮影所(1931年:昭和6年)や、野球のアメリカ選抜チームとの対抗戦(1934年)が行われたグラウンドがありました(ベーブ・ルースはここでプレーし、日本選抜はその後の読売ジャイアンツに)。

 バラの香りに包まれると、気持ちがフワフワ浮いてくる心地よさを覚え、風呂に浮かべたくなる気持ちも分かるように……




 この地は、利根川放水路計画の際に旧大蔵省所有地とされたため、計画中止後も埋め立て地に囲まれた浅瀬として残ります。周囲の埋め立て前は、谷津遊園+潮干狩り・海水浴の海辺として人気だったそう。
 ですが、市の埋め立て計画発表からゴミ投棄が増え、習志野市の恥部と言われるように。そんな状況を見かね、ふるさとの海を残そうとゴミ収集を始めたひとりの青年(森田三郎 氏)の行動から賛同の輪が広がり、埋め立て計画を撤回に追い込みます。彼は習志野市議会議員〜千葉県議会議員となった現在も、ゴミ拾いを続けているそう。
 自然環境に不自然な影響を及ぼすのは人間だけですから、その後始末はわれわれの責務です。
 1993年ラムサール条約登録に向けた工事で、えさ場も造成したため渡り鳥の渡来数が激減したそうで、何のための整備だったのか? と。




 この名称は第一カッター興業株式会社とのネーミングライツ契約によるもの(会社へのリンクはいらないよね?)。
 運動施設への支援はWelcomですが、名称がコロコロ変わる施設も多く、利用者の利便性は関係ないの? と思ったりします。でも、旧ジャスコがイオンになっても、年配者間では「ジャスコ」で通じるのだから問題ないっか……
 上は、ドア越しからも天然芝がまぶしく見えたフィールド。



追記──大阪北部地震

 被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 被害を受けた高槻市に2年ほど暮らした時分に近隣の地質図を調べたことがあり、縦横に断層が走る地に平坦地が形成された地域とを知り、ビビッたことを思い出します(山が迫る狭い場所に淀川が流れ新幹線が通される、交通の要衝ですが…)。
 設備が古い+地盤が軟らかいため、ライフライン被害が大きかったようですが、早期の復旧〜日常生活に戻れますことを。

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