2018年5月28日月曜日

禁足の地を守る──本八幡

2018.4.30【千葉県】──JR総武線を歩く_2

 千葉県を知らない者は本八幡について、都営地下鉄新宿線終点の知識しかないため、JR総武線にも本八幡駅がある(京成八幡駅も)と驚くことから始まります。大変失礼……



 八幡(やわた)の地名は、平安時代の天皇勅願により京都・石清水八幡宮を勧請し建立された葛飾八幡宮にちなみます。
 現在、境外末社とされる右の不知森神社は、「一度入ったら出てこられない」「入れば必ず祟られる」とされる禁足の地「八幡の藪知らず(不知八幡森:しらずやわたのもり)」の入口にあり、森を封印する存在のようにも。
 決して広くない竹林ですが、市街地にそんな薮を残そうとする住民の方々は、自然を敬い、身近に感じる、心穏やかな生活を送っているのではないかと。



 下総国の総鎮守で武神とされたため、平将門、源頼朝、太田道灌、徳川家康など関東武士に信仰されたそう。
 下は、国指定天然記念物 千本公孫樹(千本イチョウ)で、 多数の幹が束になり一本の大樹のように見える姿には、比類ない迫力があります(推定樹齢は1200年、幹回りは10m以上)。

 前回の法華経寺同様、右の参道も京成線に分断されており、平地が狭かった時分の鉄道敷設の苦労が見て取れます。2013年京成本社は、押上(東京スカイツリーの足元)から京成八幡駅前に移転しました。




 「日本映画黄金期を代表する脚本家」と評されるように、今井 正 監督『また逢う日まで』『ひめゆりの塔』、市川 崑 監督『おとうと』等々の名作を手がけ、成瀬巳喜男 監督『浮雲』では、原作 林 芙美子、脚本 水木洋子、主演 高峰秀子が生み出した女の情念の迫力は、どなたが欠けても生まれなかったであろう、強烈な印象として残ります。
 2003年に逝去され(享年92歳)、生前の意思により財産は市川市に寄贈され自宅が一般公開されますが、公開日ではないため未見。右は近所にある黒松の大木。
 「本八幡に降り立つと海の匂いがした」ように当時は海が近く、現在も黒松が点在する光景から「鎌倉のようだ」とされたこともうなずけます。



 日本毛織(略称:ニッケ)中山工場跡地再開発により、1988年に誕生したショッピングセンター(コルトン:ロサンゼルス郊外のリゾート地コルトンに由来)。
 敷地は広大なため、周辺にゴルフ練習場、インドアテニス施設、下の千葉県立現代産業科学館、市川市中央図書館が作られました(古墳時代後期の集落遺跡が出土した住宅展示場付近は含まれないか?)。
 右は敷地内にある雰囲気のいいgalleryらふとワークショップが開かれる工房では、天然素材とふれあい、手作りを楽しむ催しも開かれ、インスタ映えする絵が撮れそうと。




 千葉県内の企業、大学、財団法人等の最先端技術や取り組みを紹介し、実験・実習を楽しみながら学べる施設。千葉県立博物館のひとつとされ、子どもたちにアピールできる格好の施設ですから、多くの企業・団体が協賛しています(上は火力発電所のタービン)。
 ホームページに掲載されるプラネタリウムは、期間限定の12Kデジタル投影+MEGASTAR-FUSIONによる上映会とのこと(12Kってデジタルハイビジョンの何倍? 投影は可能でも、テレビで表現できないということか?)。
 そんな機械を担いで出張興行する様は、自転車でやってくる紙芝居のようで(実際に見たことはない)、現代にも「夢を運ぶ仕事」があるのだと。



 1989年開館のモダンな建物の奥にある塔は、本を積み上げたオブジェですが、わたしには以前の古紙回収トラックの古本・雑誌のように(ゴメンナサイ)。

 付近の鬼高の地名由来は、隣接地の鬼越(かつておそろしい鬼が棲んでいた)の「鬼」と、高石神の「高」を合わせた地名とのこと。鬼は人が作り上げた偶像ですから、近寄ると危険な場所(真間川流域の湿地帯)を知らせるためのアピールだったようにも。


追記──社会を意識しているのは学長だけ?

 マンモス大学と言われた日大の巨大な組織が、「マンモスの滅び方」を教授するかのような醜態をさらしています。
 呆れてものも言えない対応は卒業生にとっても恥ずかしいが、在学中の学生たちを守ろうとする素振りも見せない組織は、教育機関と言えません……

2018年5月21日月曜日

集客力ある丘陵地──下総中山

2018.4.21【千葉県】──JR総武線を歩く_1

 地下鉄東西線終点の西船橋から総武線沿いを少し歩こうと、東京側へ向かいます。東京都と県境の江戸川沿いでは、丘陵地のある千葉県側が古くからにぎわいました。




 本寺は、1260年下総国守護(行政官)千葉氏に仕えた被官(ひかん:国の役人)が、佐渡へ配流された日蓮を屋敷内の法華堂で保護したことに始まります。
 境内には、雑司ヶ谷下谷と共に江戸三大鬼子母神とされ江戸庶民に信仰された中山鬼子母神や、100日間の荒行が行われる大荒行堂があります。
 京成中山駅から続くなだらかな坂道には門前町のなごりがあり、門内に並ぶ子院群から京都にある禅寺の塔頭(たっちゅう)を想起するような大寺院です。山号「正中山(しょうちゅうざん)」が中山の地名由来。
 江戸川対岸の妙典付近に日蓮宗寺院が多いのは、地域を開墾した千葉氏系子孫によるそうです。




 以前、中山競馬場近所の方に聞いた「競馬開催日の周辺は車が動かない」の道路事情は、開催日ではない土曜日も渋滞する様を見れば、尋常でない混雑が想像できます。
 レースが無い日も人が集まる「場外馬券売り場」では、椅子でなく床こそ主戦場(?)と座り込むため競馬新聞が散乱しますが、ディズニーランドに及ばずとも、清掃の方がさっさと片付けてくれます。
 競馬場にある子ども向けの施設は無料なので、近所の家族連れには格好の遊び場ですが、開催日渋滞のお詫びとされても困りそうと。
 皐月賞、有馬記念が中山開催すらも知らなかった……


 競馬場からJR武蔵野線 船橋法典駅への地下通路がありますが、専用改札口(開催日・場外発売日のみ)のため、反対側の市街地へ出るために入場券を買いました。
 法典は、駅名=ほうてん、地名=ほうでん と読み、「法傳」の地名に由来する説がある程度で、宗教的な由来に関しても不明とのこと。



 地図で円形の外周道路に囲まれた地区を目にし、2007年に撤去された象のオリ(沖縄県読谷村の楚辺通信所)を想起したように、ここにも1915年開設の海軍無線電信所船橋送信所がありました(全方向との交信用アンテナ)。
 その通信施設が、関東大震災で壊滅的な被害を受けた都心の通信所に代わり東京の惨状を発信したことから、船橋の名が世界に広まりました。
 開戦命令であるニイタカヤマノボレ1208の電文はここから送信されたため、当然戦後は進駐軍に接収され、1966年返還〜1972年に解体されました。

 跡地(リンク先は1989年撮影の空中写真)は学校(小学校2校、中学校1校)、団地、社宅、運動広場(グラウンド)、行田公園(県立)などに利用されますが、円形の外周道路に囲まれた地区って利用しづらそう。
 立派な大木が多く見られるのは、軍事施設なのに空襲被害を受けなかったためで、米軍は占領後の利用を想定し攻撃しなかったように。
 右は、清掃用具を木に収納(?)する様子。倉庫ではなく見える場所に置くことで、気になった人が気軽に利用できるため、公園がきれいに保たれそうと。

 右は公園隣接地にある消防署訓練の様子。
 腹部のロープは、右手前から2人が引き、足を絡めたロープは下で1人が支えます。右側目盛りの地上15m付近で訓練は終了らしい。
 自力で登れる力はあっても(SASUKEではないし)、実際は防護服着用のため動きにくく、階上のけが人救助ではチームワークが必要になりますから、現場を想定した訓練は欠かせないものと。
 毎回つくづく思いますが、万一の場合はよろしくお願いします!

2018年5月14日月曜日

ふなばし三番瀬海浜公園の潮干狩り

2018.5.5【千葉県】

 連休中に潮干狩りでにぎわう、ふなばし三番瀬海浜公園へバスで向かいますが、車窓から路上駐車が続く様子を目にした瞬間、連休のうんざり感が……




 三番瀬(さんばんぜ)は、旧江戸川から供給された土砂により東京湾奥部に形成された干潟や浅海域で、西端のディズニーランド付近から、東端の千葉港付近まで広がっていました。現在ではそのほとんどが埋め立てられ、立ち入り可能な海岸はここだけらしい。
 最寄りのJR京葉線 二俣新町駅付近には「海浜公園まで2km」の看板がありますが、陸側も埋め立て地で、江戸時代は西船橋駅付近も干潟だったとのこと。
 埋め立て後に整備された砂浜には、ビッシリとテントの花が並びます。


 ガキの時分、埋め立て前の幕張で潮干狩りをした時には、ザクザクの表現がふさわしいほど採れた記憶があります。
 どこまでも続く遠浅海岸の沖に豆粒のような人影の見え、あそこではどれだけ採れるのだろうと眺めていました(この付近が当時見た沖の彼方くらいの場所かも)。
 潮干狩り場には漁協がアサリをまくそうですが、沖まではまかなかいでしょうから、ハマグリを狙っていたのか?(当時はハマグリも採れました)


 砂浜とはいえ水遊びはできないため、砂遊びに飽きた(採れなかった?)子どもたちが遊べる噴水があります(下)。砂を洗う施設はある程度の数はあっても行列のため、「あそこで砂を洗ってらっしゃい」という連中もいそうと。
 貝の生態を知ることは経験になるし、上の人が持つスコップでは貝をつぶしてしまうためクマデが最適との知識も、これまでの生活で少しは役立ったかも知れません。


 潮干狩り場は、利用料金(大人 430円)とは別にアサリの持ち帰り料金(100gにつき80円)、貸クマデ:1本200円(返却時100円返し)がかかります。
 そのためか、区域外の浅瀬(下は禁漁区域)にも多くの人が出ています(京葉線車窓から江戸川河口付近にも人出が見えた)。付近から大陸系や東南アジア系の言葉が聞こえてくるのは(もちろん日本語も)、本国では潮干狩りが不可 or タダだからか。
 ご想像の通り、度を越した爆・潮干狩りに迷惑しているらしい。


 地域で売り出し中の、焼きホンビノス貝を初めて食べました。北米に生息する外来種(日本での初見は1998年千葉市)で、小ぶりのハマグリ的容姿ながら、味は濃いめ・固めなので酒に合いそうですが、やっぱハマグリでしょ。
 アメリカではクラムチャウダー、バターやワイン蒸しにするそうで、その調理法は美味そうと。

 ここは工業用地に囲まれるため、沖には大型船(右)、振り返れば産業廃棄物の山が迫る立地です(下)。
 この取り合わせからは、海浜公園の方が無理やり入り込んだように見えますが、共存できる環境整備を将来的な目標としたいところです。



追記──『倍賞千恵子の現場』 倍賞千恵子著 PHP新書

 久しぶりに本を読みました。
 渥美 清さんとは波長が合ったそうで、撮影時の掛け合いがハマり過ぎて笑い出すNGを繰り返したとのこと。現場の明るい雰囲気がスクリーンから溢れ出るのは役者の技量と言えますが、渥美さんとは兄妹ではなく戦友に近い関係だったように。
 映画を振り返る文章から場面を思い浮かべ、彼女の思いが伝わっていたことの再確認や、初めて知る裏話に感心していると、映画を再検証したい気持ちが高まります。
 真摯に取り組む姿勢が心に響いた作品群を、出演した方の文章を読み振り返ると、カチコチに固まった心を耕してくれるかのように「ちゃんとやってる?」と声をかけられ、「ちゃんとやらなきゃ!」の背中を押してくれたようにも……

2018年5月7日月曜日

水いずる岬──西船橋

2018.4.28【千葉県】──地下鉄 東西線を歩く_9

 西側からアプローチする者にとって、千葉の玄関口は西船橋駅の印象があるように、乗り換えターミナルとしては千葉県内でもっとも利用者数は多いそうですが、駅の外に出る人は少ないため駅周辺はこじんまりとしています。


西船橋駅

 この駅には、JR総武本線、武蔵野線、京葉線(武蔵野線と相互乗り入れ)、東京メトロ 東西線、東葉高速鉄道 東葉高速線が乗り入れ、京成西船駅も徒歩5分程度の場所にあります(右は武蔵野線ホーム)。
 京成西船駅の名称は西船橋の通称ですが、それが定着したことから自治体が地名とし、駅名もそれにならったらしいが、「それでええんかい?」と部外者はツッコミたくなります。
 1978年武蔵野線開業まで中山競馬場の最寄り駅だったため、その筋向けの飲食店や風俗店が多いそう。




 西船橋駅から乗ったバスは「ファイターズタウン鎌ヶ谷」行きで、北海道日本ハムファイターズ二軍の練習施設はこの辺にあるのかと。
 前身の東映フライヤーズ時代に多摩川河川敷(川崎市新丸子)に練習場を設け、後の相模原球場(相模原市)を経て、1997年鎌ヶ谷に移転します(神奈川の2箇所はどちらも身近な印象がある)。清宮クンは一軍に昇格したので、これからは閑散としそうです。

 上は八坂神社のヤブツバキの大木(門前に鎌ヶ谷への道標がある)。


葛飾湧水群

 以前、千葉、茨城、埼玉、東京にまたがる広い地域が「下総国葛飾郡」とされた経緯から、親しまれた葛飾の名が付近の神社や学校名に残る地域で、京成西船駅も以前は葛飾駅でした(確かに葛飾区とまぎらわしい)。
 JR総武線、京成線付近は丘陵地の末端で、縄文期は丘陵の奥まで海が入り込んでいたため、遺跡や貝塚が発掘される歴史を持ちます。
 付近の湧水には、谷筋に湧出するゲエロの池(右:ご想像の通りゲエロはカエルの方言)、葛羅の井(下:かづらのい)と、当時の海に面した斜面下に湧出する、二子浦の池、二子藤の池があり、地形的な分類はされますが、どちらも海の浸食により出現したように。



 水に恵まれた谷筋の低地には農地が広がっていたため、まとまった土地の確保が可能なようで集合住宅が並びます。ゲエロの池隣接地でも建設工事が始まっており、地下水脈の息の根が止められてしまいそうと。
 谷筋の斜面に、旧農家らしい敷地の広い屋敷が並びますが、井戸を掘れば水が手に入る土地だったように。


 水が不便な丘陵地も農地だったようで、全般的に区画整理は進まず田舎道が残される様は、便利な道ができれば騒音・危険が増えるだけと、車の侵入を拒もうとする姿勢にも。
 それは中山競馬場が近いため、「開催日は居住者以外通行禁止」の標識があっても無視する車への対抗措置に見えるが、自治体が何とかすべき問題かと。
 上は旧農家の防風用(?)の生け垣。


 以前、丘陵下を通る千葉街道の海側には砂浜が広がっており、二子浦とされる浜から日蓮が船に乗ったとされます(近くに中山法華経寺がある)。
 千葉街道の下には、地元で「溜(ため)」と呼ばれる湧水池が人工的に作られ、その身近さから現在も池として残されています。上:二子浦の池、右:二子藤の池。

 古地形によると、西の東京側に広がる広大なデルタ地帯に岬のように突き出した丘陵地の東側は、海沿いの平地が狭くなる様子がうかがえ、地形的にも千葉の玄関口であるように感じられました。


追記──これが、松坂大輔!

 帰国後も活躍できず、中日の森監督(元西武)が手を差し伸べた心意気にも、大丈夫なのか? と、ネガティブな見方をしていました。
 全盛期と違うのは当たり前でも、胸を張って打者に向かい投げる姿に「これが、松坂大輔!」と。当事者たちも、見る者も「この姿が見たかった」とジーンと来ました。
 あの姿を見たら、甲子園での熱投を知るオヤジたちも「自分に喝!」と、勇気がわいたのではないか。


追記──連休の谷間

 連休中も暦通りに出勤すると、乗客の少ない地下鉄は定時運行されるため、停車中の駅で「当駅○○分の発車です。しばらくお待ちください」のアナウンス。たかだか数十秒程度ですが、時刻表はラッシュ時の乗降時間を見込んで組まれていることを実感しました。


追記──最高の花道を用意してもらったイチロー

 マリナーズのオーナーは動静を見守り、声をかける球団がいなくなった時点で呼び寄せようと考えていたのではないか。可能なパフォーマンスを「地元」シアトルファンに披露した上で、球団の「宝」として受け入れる方策を探っていたように。そこには「金」に左右される動機ではなく、彼の存在すべてを受け入れようとする懐の深さを感じました。
 相思相愛の相手から最高の花道を用意してもらったのだから、未練云々もないことと。
 立場の詳細は不明ですが、これからの活躍を!


追記──キラウエア火山噴火(ハワイ島)

 道路から溶岩が噴き出す光景には驚きました。新しい割れ目火口がどこにできるか予測できないようですが、流動性のあるマグマ(流れ出す溶岩:爆発性が低い)がゆっくり流れるため、被害者が出てないことは何よりと。以前わたしも見学しましたが、身近に溶岩を観察できる様は(湯気が出ているし暖かさが伝わってくる)、観光対象というよりも研究対象ですから、近隣住民への配慮からも見学はしばらく自粛すべきと。
 ハワイ島に暮らすなら北西側のコナ方面は火山活動も静かかと。

 いろいろあった連休でした……

2018年4月30日月曜日

江戸川らしさとは──原木中山

2018.4.14【千葉県】──地下鉄 東西線を歩く_8

 妙典〜原木中山駅間には、1919年洪水防止のため江戸川放水路(現 江戸川)が開削されますが、平常時は河川の水が流れない海の入り江のような存在です。開発が進んだ旧江戸川沿いに比べゆとりを持つ設計のため、河川敷には開放感があります。



 東関東自動車道の起点(首都高速湾岸線との接続点)で、当初は新空港自動車道(成田空港の宣伝)として開通したこともあり、走りやすかった印象があります。
 湾岸線接続以前はこの付近で一般道に降ろされ、「この先は渋滞だ」と覚悟した場所だったかも。でもそんな経験があるから、湾岸線開通後にディズニーランドの夜景を横目に走り抜ける快感があるのだと。
 2018年6月開通予定の東京外環自動車道(三郷南~高谷JCT)は住宅地を通るため、巨大な防音壁が設置されています。便利のためとはいえ、新設の高速道が市街地を通されるのは、近隣には大迷惑なことと……


江戸川(放水路)


 河川敷を目にし「江戸川らしい」と感じた「らしさ」とは、「寅さんが現れそうな光景:葛飾柴又は江戸川のほとり」によりそうで、どこにでもある(or あった)身近な景色に見えるためかと。
 現在都心部の河川はどこも防災対策による人工的な護岸のため、親しみが持てるよう工夫をしていますが、東京でその成果を実感できるのは、西端の多摩川と東端の江戸川程度かと。
 人の手が加わっても「らしさ」を保つ川は、歩いていて楽しくなります。


 行徳可動堰(下)は、江戸川水閘門(水門+閘門)と連動して海水の溯上を防ぎ、渇水時も上流にある金町浄水場からの取水を守るための施設。
 その下流側は、開発が進んだ旧江戸川とは異なり、レジャー用途を目指し整備されたため、貸しボート屋前には上のような仮設桟橋が多く見られます。

 ニュース等で目にする防災カメラの映像は重要な情報のため、仮設ながらも目盛りの見やすい右の水位標識は、それを撮影するカメラを意識しているようにも(奥の検潮施設だと写りにくそう)。


 1957年建設の行徳可動堰(上は2014年改修後の姿)右側には行徳橋が通されますが、時代を感じさせる幅の狭さに驚きます(歩道も自転車のすれ違いが困難な幅)。
 現在上流側(左側)で橋の新設工事が行われており、2020年完成予定。

 堰は水域環境の境界で、下流側に釣り人が多いのは海魚の多さによりそうだが、上流側に誰もいないのは、金町浄水場の貯水池のため釣りが禁じられているから?
 堰のゲートは洪水時だけ開かれ、平時は江戸川水閘門から放水されます。


 東西線 江戸川第二橋梁の両岸には、貸しボート屋が並んでいます。
 これからの季節はにぎわうと思うも、各店に山積みされたボートが全部利用されるのか調べると、ハゼ釣り(リンク先に誘われそう)の人気があるらしい(ここは海)。
 ガキ時分にハゼ釣りをした記憶には、釣りたいとの意志に関係なく「食いついてくる」ような感覚で、ひっきりなしに釣れて楽しかったし、即 天ぷらにしてその場で食べさせてもらい、おいしかった思い出がありますから、ここも人気が高そうと。


 有り難そうに見えるが、座ったら服が汚れそうなバス停のベンチ。
 設置・管理の方が不在となったように見えるも、近所の方が重宝されるならその姿を撮りたかったと。


追悼──衣笠祥雄さん

 野球ファンに彼を悪く言う人はいないと思うが、若い時分はやんちゃだったようで、外車を乗り回しては事故を繰り返し、免許取り消しになったそう。
 親交の深かった年下で酒を飲めない江夏 豊氏に、泥酔後の面倒を見てもらったそうで、心を許せる相手には自分をさらけ出してしまう純粋さが、後輩から慕われる由縁とも。
 早すぎると驚きましたが、お疲れ様でした……

 ──1979年日本シリーズ 近鉄対広島 第7戦、江夏の21球を見つめる際、わたしは西本監督の近鉄を応援していました。

2018年4月23日月曜日

庶民の信仰が尊重された──妙典

2018.3.17【千葉県】──地下鉄 東西線を歩く_7

 地下鉄東西線 妙典(みょうでん)駅は2000年開業の新しい駅で、開通当初から駅設置は予定されるも、周辺宅地開発の進展後に建設されました(自治体側の思惑か)。




 行徳街道の南側に権現道とされる路地が残ります。権現とは徳川家康(東照大権現)のことで、東金方面へ鷹狩に向かうための道は行徳街道より早く設置されました。
 道幅2〜3m程度なので右のような長屋とマッチしますが、当初は塩田の中を通され見通しがよかったことと。
 上は懐かしいゴミ収集箱で、神奈川も同じ形状ですから規格があったようにも。当時はこれで数軒分のゴミが入ったのですから、現在どれだけゴミが増えたかが分かります(生ゴミ専用だったか?)。
 古い道や寺社が多く開発しにくいためか、妙典駅に近づくにつれ昭和の雰囲気が濃くなるように感じます。



 以前、江戸川・旧江戸川の分岐付近にある閉鎖された船だまり(篠崎マリーナ)を歩いた際、周辺の地名「河原」をいい加減と感じたが、その名が地域のルーツとのこと。
 一帯は、江戸川(旧 太日川:ふといがわ)からの土砂が海の影響により堆積した河原のような土地で、地域開拓を牽引した人物の子孫が妙好寺(下)を建立します。
 寺が日蓮宗だったことから、御題目とされる「南無妙法蓮華経:法華経は妙なる経典」(蓮華経は法華経の正式名称)より「妙典」の地名とされ、河原に文化が芽生えました。


 フラっと入った右の妙覚寺(日蓮宗)で解説ボードを読んでいると、玄関から住職が飛び出してきて、千葉県唯一とされるキリシタン燈籠の説明をしてくれます。
 なぜこの寺にあるのか分からないが「隠したかったんでしょうねぇ〜」という、慈悲が込められたオチが住職・寺の売りらしく、見学者も多いように好印象が残ります。

 下の徳願寺(浄土宗)は徳川家康により建立され、幕府から朱印状が与えられるような別格のたたずまいで、幕府直轄地(塩田)で誇示される権力の大きさが伝わってきます。

 行徳舟(江戸小網町~行徳を結ぶ)には、江戸川上流〜利根川を経由する銚子方面航路もあり、当時物資輸送の主力だった舟運(しゅううん)の中継地付近には、人・物の往来でにぎわった時分の痕跡が残されます。下は旧江戸川沿いに残存する蔵で、他にも散見される様子から付近は荷揚げ場の中心だったように。
 明治期以降、鉄道整備〜水運の衰退とともに地域の活気は失われますが、残された往時の姿を活用した地域おこしをもっとアピールすべきではないかと。楽しく歩けます。



追記──警備の格付け

 地下鉄日比谷線 神谷町駅から坂を登った飯倉交差点付近には、普段からロシア大使館警備の警官、道路封鎖のバリケードやバスが待機していますが、この日はいつもとは違い、キリッとしたスーツ姿の「私服警官」が目立ちます。それは、麻布郵便局となりにある外務省飯倉公館で行われる日中外相会談の警備らしい。
 警戒対象は普段と同じ、中国・ロシア大使館に抗議の声を浴びせにくる黒い街宣車と思われるが、中国の外相を迎えるためにSP(セキュリティポリス:要人警護任務専従警察官)が配置されていたようです。
 ですが、国にとって重要な行事の際に常習犯が騒がないのは、警察との間に「裏の忖度」の取り決めがあるようにも……

2018年4月16日月曜日

江戸期の風情を伝える──行徳

2018.3.17【千葉県】──地下鉄 東西線を歩く_6

 周辺には古い時代より、江戸川(旧 太日川:ふといがわ)からの土砂が堆積し平坦な湿地や遠浅の海が広がるため、その地を利用しようとする人々が営みを始めました。



 行徳とは、戦国時代に江戸川区篠崎付近に神社を建てた山伏の別称で、周辺に神社へ納める塩を作る塩田があったことに由来します(現在も本塩の町名が残る)。
 江戸時代の行徳塩田は幕府の支配下に置かれ、水路整備により水・陸街道の接点となったことから(成田方面への街道)、人々が集まり文化が根付くことに。

 右は、南行徳公園の危険そうに見える滑り台ですが、子どもたちには人気があります。ガキの時代に、足を踏み外しそうな階段として改良された記憶があり、大丈夫かと心配になります。

 右写真奥は、対岸の江戸川清掃工場
 妙見島の産業廃棄物処理工場でも感じた、都境にこの手の処理施設を作ろうとする内政重視の姿勢は、隣県には迷惑きわまりないが、自区内処理の原則に従う江戸川区にしても立地場所が限られるのも確か。
 隣接自治体との事前協議はあったとしても、作られてしまえばおしまいという気もします。

 以前付近の川岸にあった船の係留施設は、どこも閉鎖され、下ののように放置されます。費用がかかるから何もしないでは、環境悪化を助長するようにも。


 現在の地勢からは、旧塩田は京葉線付近にあったように思えるが、旧江戸川沿いに広がったようです。
 家康の街道整備事業により行徳街道が通され(参勤交代に利用された)、後に江戸へ塩を運ぶ塩の道水路が整備され、当時盛んだった成田詣での参拝客の往来が増え、栄えるように。
 当初、旧江戸川を渡る今井の渡しは大名専用で、庶民は市川関所を通されました。東京の西側で育った者には関所=箱根で、東側にもあるのは当然ながら、市川(江戸川岸)にあったとは想像もできませんでした(失礼)。
 右は香取(かんどり)神社(奥はイチョウの木)。


 江戸からの水路は、江戸期に開削された小名木川新川を経由し旧江戸川に通じます。
 江戸側には現在の小網町付近に行徳河岸があり(行徳の焼塩などの荷揚げ場)、行徳側には旧江戸川岸に行徳新河岸があり、成田参詣、鹿島神宮や銚子方面への旅人がここから陸路をたどりました。
 船着き場付近には、陸路で来ても寄らない人はいなかったと言われる、行徳名物笹屋うどんの建物が残されています。また、街道沿いに健在の味噌店や船具店(現在は船外機を扱う)などを見かけると、往時のにぎわう様子が目に浮かんできます。

 右の常夜灯は、江戸時代に成田詣での江戸日本橋西河岸・蔵屋敷の講中が、航路安全を祈願して成田山に奉納したもので、江戸航路を結んだ船は行徳船(ぎょうとくぶね)と呼ばれ、本行徳村が運行しました。
 それぞれの役割があるので悪口のつもりはないが、農産物を江戸へ運び、江戸の糞尿を運んで帰る船の葛西舟(かさいぶね)とでは、地名のイメージが違いすぎると。

 左下側は対岸にある王子マテリアの煙突で、下流域(葛西沖、浦安沖など)に被害をもたらした黒い排水の元凶(当時は本州製紙)。工場の排水口付近で採集した排水にフナを入れた途端に、全部死んだ実験結果もあるそう。
 高度成長期には、人間も含めて実証実験の対象とされるような事例が、身近に数多くあったように……

 江戸城防衛のため橋が少なかった江戸川ですが、現在3箇所に橋を新設する構想があるらしい。その経緯は、江戸時代当初は隅田川に千住大橋以外の架橋を禁じたため、大火の際に対岸へ逃げられず多くの犠牲者を出したことから、大橋(両国橋)を建設した状況と似ているようにも。
 その発端は東日本大震災の夜、都内から千葉県側へ向かう帰宅者が市川橋などに殺到し、橋を渡るのを諦め東京側の避難施設で一夜を明かした帰宅困難者対策のようです(約8キロも橋がない区間がある)。
 ですが受け止め方によれば、東京都の防衛策(隣県人までは面倒見られない)と読み取ることも可能と思うが、それは失礼に過ぎるだろうか……

色あせる思い出──いなげの浜

2021.4.10【千葉県】  ここは埋め立て事業により失われた浜辺を、日本初の人工海浜として復活させたものですが(1976年)、侵食の影響が大きいため保全は大変そうです……  ディンギー(キャビンを持たない小型の船舶)を目にすると、条件反射のように 大瀧詠一「...